世界を広げる英語
流暢でもないし、新聞、雑誌を読む時はまだまだ辞書が常時必要。最近はiPhoneに辞書のApplicationを入れているから、どこでも単語が引けてとっても便利。ちなみに私が使っているのはドイツ語もカバーしているので、調べたら両方チェックするようにしている。でも、辞書だけではカバーしきれない言い回しも山ほどあり、辞書を引きながらでも100%理解できない。そこは夫に助けてもらって、初めて理解できるものも多い。夫も英語は第二ヶ国語。20代半ば過ぎに本格的に必要になったのだと思う。『どうしてそんなに英語が出来るの?』と聞くと、『仕事を通して、そして、毎日2つの新聞を読むからだよ。新聞は英語を勉強するのに一番早道だと思う』だそう。
こんな感じでバイリンガルなんて言うにはあと20年ぐらい掛かりそうな私だけど、そんな未熟な英語でさえ、第二ヶ国語として身につけるようになって、様々な意味で本当に得をするようになったと感謝している。
私の母方の祖父、洋行の船長さんをしていた曽祖父の影響だったと思うけど、ベレー帽をかぶって、おじいちゃんは本当に洒落た人だった。イメージを例えるならば手塚治虫。めがねをかけていて、いつも身だしなみに隙が無い建築家でした。私が10歳の時に亡くなった。中学に入ってはじめて英語が始まった私。『英語は楽しいよ~』と存命の頃のおじいちゃんの言葉を思い出すけど、中学での私の英語は赤点、まさに最低の成績を英語でとっていた。なぜかと言えば、中学で初めての英語のクラス、まさにスパルタ式とも言える英語の先生に当たってしまった為。勉学としての英語を学びたい、と思ったことは人生の中で一度も無し。こうして外国で暮らし、ひょんな縁でドイツ人と結婚してサンフランシスコで暮らしているよ、なんて言ったら、きっとこのおじいちゃんが一番喜んでくれたのではないかとと思う。本当に、いま、おじいちゃんが生きていたら、おかしな話だけど、もっと日本と行き来しているかもしれない。
アメリカに来て10年近くになるけど、海外で暮らしたいと思っていた訳ではなく、日本を出たのは、20代の最後で、何か日本で行き詰っていたのだと思う。だから、たまたまあった話をつてに、短期のつもりで飛び出してきた。駄目でもともと、と思っていたからこそ、20代の終わりという年齢で、英語も話せないくせに飛び込めたのだと思う。どのくらい話せなかたかって言うと、スターバックスに怖くて入れなかったって言うぐらい。だって、どうやってオーダーすればいいのか分からないと言うよりも、オーダーを聞かれている時点で相手が何を言っているのか分からなかった。
もうすぐ10年。上にも書いたように私の英語なんていうのは、未だにまさに恥ずかしい域を超えていなくってで、単語力も、会話力も、日々情けない思いをすることばかり。そんな片言の英語でも、英語を第二ヶ国語として生きる場所に飛び込んで、本当に英語を取得して得したな、と思う。
先日日本に帰った時にnewsweekの日本版を購入して読んだのだけど、多くの記事が英語版を日本語翻訳したもの。良いのか悪いのか、もとの英語にしたがって翻訳されているので日本語で読むと少しおかしい。どういうことかというと、英語を知っている人間が読むと、理解でき、感覚的に伝わるけどいけど、果たしてあの日本語訳を全く英語を知らない人が読んでどのくらい自然に読めるのか?というとかなり疑問。日本語ですんなり頭に入ってくるように意訳されていない感が付きまとった。日本人に優しい意訳ではない、という問い分かりやすいかな?だから、ある意味正統派の訳なのだと思う。
ここが英語に少し浸って得をしたな、というところ。つまり、映画にしても、印刷物、Web媒体にしても、英語から訳された日本語の何処がおかしいか、感じ取れるようになったことであり、日本語に訳され、『うまく』置き換えられた、本来の意味と違うところを鵜呑みしなくても良いという事実。だって、日本人に感じやすく、そして理解しやすく訳されたものは、悪く言えば全く違ったニュアンスになっている事が少なくもあらずだから。
日々日常、世界から入ってくるニュース、雑誌の中でのインタビュー、どれだけの情報が、本来の意味を継承せずに自分に届いていたか?という現実を知る事ができただけで、仮に英語を100%扱う事ができなくても、英語の社会に飛び込んで、得るものがあったと断言できる。
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たとえば、かの有名なSteve Jobs氏のスタンフォードでのスピーチ。もちろん、これを日本語の字幕で読んだ人は多くいると思う。そして感動し、このスピーチが世界の歴史に残るスピーチと思う人も沢山いると思う。でも、英語で理解するのと、誰かが一般的に訳したものでは雲泥の差以上に入ってくるものが違う。それは英語を完璧に理解する、ということではなく、同じ土壌に立って、自分の耳で聞き、そして、自分の頭で消化するということだから。例え今日理解できなくても、理解する為に単語を調べ、何回も英語で聞き、いつか、『ああ、ここでこの人はこういうことを言いたかったのではないか?』と自己消化することと、誰かが、分かりやすく『訳した言葉(既に一回誰かに消化された言葉)』をその人の言葉として、感動することは、本当に違う。言葉は直接自分に届かなくてはいけない。もし、このスピーチを日本語の字幕で読んで感動した人がいるならば、英語を勉強して、字幕ではなく英語で理解してほしい。そうしたステップを踏むことで、いかにDirectな言葉の響きが大切か?ということにもう一度感動し、大切さを見出すことができるのではないかと思う。
もう一つ得をしたと思えることが、英語を受け入れることによってアクセスできるようになった情報量。得をしている、なんていう表現ではあらわしきれない。もちろん、日本書、として素晴らしいものが数々あるけど、たとえば日本人以外の人をインタービューしたものであったりすれば、それは全てIndirectに私たちに繋がる事になる。自分と、対象物(人)の間に、何かクッションを置くということは感動を妨げる、ということだ。もし、私がU2を好きだったら、、、ボノを好きだったら?英語を解することによって、彼の言葉が私の届く確立は何百倍にもなる。単純なことだけど、様々な有名人、例えば、、オバマ大統領、アンジェリーナ・ジュリー(笑)とか、英語の媒体によってアクセスできる量は計り知れない。ゴシップ・ニュースだけでも何百倍も楽しみが増えるといっても過言ではないかも。世界中で発行される英語にて発行された雑誌、Web。その中でインタビューされる著名人達、そして行きかうインフォメーション。日本の雑誌、新聞の中で、発行者が勝手に抜粋して取り入れて読ませる情報と比べれば、把握できる量が違う。
2年ほど前に、annie leibovitzさんを招いたレクチャー&パーティーに参加させていただいた。過去10年で、こうした機会の数々で、英語が理解できた事によって、どれだけ素晴らしい経験をできたかは、書き出すことができない。もちろん、英語がいつでも共通語とは限らないかもしれない、でも、世界で活躍する人と、もし今日会話をする機会があったとしたら、(流暢でなくても)英語ができることによって、どれだけ素晴らしい体験ができるかは計り知れない。傍観者になるか、当事者として参加できるか?この一線の違いはとても大きい。
英語を全くもって話せなかったら、私が如何に彼女のレクチャーから得たことがあり、感動したかを女史に伝える事はできなかった。そして片言の英語だからこそ、次にはもっと相手とコミュニケーションしたいと思う願望に駆られる。こうした人たちは、私の英語が如何に片言でも、耳を傾ける事を決して厭わない。それは、コミュニケーションが如何に両者の努力の賜物か、という事を知っているからなのだと思う。『伝えたい』という意思は原点であり、その大切さを知っている人は、言語のレベルが決して第一ではないと知っていると思う。(と、同時に言語力の低い私などは、何十倍も努力して伝えることに神経を注がなくてはならないけど。。。) だから、片言でも、まずは相手の言語でコミュニケーションしようという意思を持って接することが大切なのだ。『私は英語がしゃべれないから』と、頑なに横柄になっては何も始まらない。全ては相手に近づく為の歩み寄りから。
英語を聞けるようになって世界が広がり、その言語によって感動できるようになり、その感動を同じ言語を話す人に伝える事ができ、最終的にはコミュニケーションができるようになる。たった一つの言語を学ぶことで、大げさではなく、広がる世界は思っていた以上に大きかった。
今、もし、おじいちゃんが生きていた頃に帰る事ができたら、、、きっとおじいちゃんに伝えることができる。『おじいちゃんが、英語ができると楽しいよ、って言っていた意味がやっと分かった。本当に楽しいね、そして世界感が変わる。』と。そして、おじいちゃんと英語で会話したかも。